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【武将列伝】ろっくんこと支倉六衛門常長

こんばんは、いまなかせーじですぬこさざえ



本日は、信onでこの人を知らない人、
一回もお世話になったことのない人は少ないであろう
この方















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支倉六衛門常長(はせくらろくえもんつねなが)です。


信onでは人取橋で「足軽六衛門」として、
小田原の陣では「支倉六衛門」と
名前がそれらしくなってきていますね。
私の一門では、6人未満の徒党でのptをはじめ
小田原の秀吉、摩利支天時の野外PCの護衛にと、
利便性の高さを活用しています。

松島五大堂には3つの時の歪みがありますが、
五大堂からは今のところ伊達政宗由来の合戦が続いており
また公式にも政宗以外の固定グラで恐らく真田幸村であろう
キャラが掲載されていますので、両者が揃い踏みする最後の舞台は限定されましたが、
さあこの六衛門はそのときどのような進化を遂げるか楽しみでもありますね。


それではお話へ。


支倉常長は、山口常成(やまぐちつねなり)の次男として1571年に生を受けました。
同年に起きた出来事は、織田信長が「比叡山焼き討ち」を行った頃ですね。
この頃は織田包囲網が敷かれている最中でした。
さて、常長はその後、子に恵まれなかった伯父・支倉時正(はせくらときまさ)の養子となり、
これから支倉姓となりました
子に恵まれない時正の養子となって、正式に支倉家の跡取りとなる予定だったのですが、時正が諸事情で前妻と離婚し、後妻と結婚したのですが、なんとその夫婦の間に子(久成)が恵まれてしまいました。支倉家の家督を継ぐために迎えられた常長ですが、この流れはまずい…


と思いきや、伊達政宗の主命により、当時支倉家は1200石持ちだったのですが、それを二分するようにし、600石取りとなり、事なきを得ました。

さて、時代がかわって1591年。
昨年に小田原の役により、最後の敵・北条家を下した豊臣秀吉が日本を天下統一したのですが、直後「葛西・大崎一揆」が発生します。名称が葛西・大崎氏という家からきており、以前両氏は伊達家に従属していたので、伊達家に無断で兵を出すことができなかったのです。しかし豊臣秀吉により小田原の役に参陣しなかったことを理由に領土を没収されてしまい、さらに転封されてきた木村吉清という者の統治が、両氏の旧家臣の強い反発を買うものであったためでした。この一揆の鎮圧にあたった武将の一人として常長の名前もありました。
更に翌年、1592年には秀吉が突如朝鮮に対し侵略を開始しました。世に言う文禄・慶長の役で、常長も伊達政宗と共に朝鮮へ従軍しました。

1609年にスペイン(当時はエスパーニャ)の前総督の一行が日本の海岸で座礁・難破したのを救出したことがきっかけにスペインと日本の交流が始まり、常長は政宗の命を受け、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、自身は副使となって遣欧使節として貿易を目的に180人強を連れて1613年に日本を出発し、ヨーロッパへと航海を開始しました。太平洋を渡って北アメリカ大陸のアカプルコに到着し、陸路で大西洋岸のベラクルスへ移動、大西洋を渡ってスペインに、さらにそこからローマへと到着しました。この間約1年と半年経過しました。
スペインではフェリペ3世、ローマでは教皇パウルス5世にそれぞれ謁見し、ローマでは貴族に列せられました。
しかし、本来の目的である貿易については成功できず、不本意のまま、日本へと帰路につきます。



所変わってこの頃の日本では…
常長が日本を出発した直後、日本はキリスト教に対して禁教令がだされました。禁教令については織田信長、豊臣秀吉も出しており、江戸時代に入ってからは常長が出国する1年前の1612年に幕府直轄地でだされましたが、すぐに収まりました。しかし今回の禁教令は幕府直轄地だけでなく日本全国に向け、徳川家康は以心崇伝に「バテレン追放令」を起草させ、発布しました。
これにより、日本は以後キリスト教に対して弾圧を進めていき、鎖国政策をとっていきました。




さて、ローマから4年以上かけて日本に帰国した常長はというと…

1620年、帰国した時にはすでに禁教令が出されているため、数年の船旅をしてまで外国から帰国したのに全くの無意味におわり、2年後の1622年、失意のうちに逝去しました。享年52歳。


政宗の期待のもと、ヨーロッパへ向かった常長でしたが、禁教令が発布されたことにより、なんとも悲しい結末となってしまいました。政宗も常長のことを気にかけていたようで、常長が帰国したときにどのような対処をとるか、苦慮していたという直筆の手紙が残されていたりしています。

この人の一般に認知されている名前は「支倉常長」で、今回、常長、常長と私も呼んでましたが、彼は生前に常長という名を一切使っていないようです。「六衛門長経」もしくは「長経」を使用していました。では常長という名でどうして残っているの?という疑問が残ります。
これについては、彼は洗礼名ももらっているようにキリシタンであり、鎖国政策の元凶も本はといえば宣教師がキリスト教を熱心に説教し、熱烈な信者が増えていき、勝手な振る舞いをする者が後を絶たないので、その元を断つために行われました。後年「踏絵」などでもあるようにキリスト教弾圧政策が常軌を逸するほどだったので、支倉家の子孫が、キリシタンであった長経の名で無用な言いがかりをつけられないよう、常長に変えていたのではないか、といわれています。



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