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【武将列伝】内藤修理亮昌豊

まず初めての方は一応コチラからお読みください。

さて今回の列伝は








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2011y06m07d_001227765.jpg
(信長の野望online様より)



内藤昌豊さんです。

こういうのってやっぱり誰から紹介していこうか迷いますね。

同一門の人に「なにかリクエストないかなあ?」って聞いたところ、「もう書いた人は?」ときかれたので「山県先生」と応えると、「それじゃ信玄とか幸村とか」や、「山県だったら高坂とか馬場がいいんじゃないかな」
と言われまして、やっぱり好きな武田で最初は攻めたほうがいいかなって思ったので



敢えて四名臣なのにやっぱり名前が一切出てこない内藤昌豊さんを書くことにします。

まずこの人についてはコチラを見ていただきましょう↓




2ちゃんねる
【猫口将軍】山県昌景と愉快な仲間達 より転載

漫画センゴク   四名臣の他の三人は出るが内藤は秋山と差し換え
大河武田信玄   他の三人は出るが内藤だけ出ない
大河風林火山   他の三人は出るが内藤だけ出ない
ゲーム戦国ランス 他の三人は出るが内藤は真田と差し換え
ゲーム太閤立志伝 川中島イベントを起こすのに他の三人は必要だが内藤は必要ない…





なんでしょう、哀愁が漂いますね。

目から汗が出てきそうです。

エロゲのみならず大河ドラマでもボツられるとか…
地味であるがゆえにこのようなことになってしまったのでしょうが…
あまりにも…




さて、気を取り直してお話していきましょうか。




昌豊は1522年、工藤虎昌の次男として世に生を受けました。

内藤昌豊は、元は工藤家の人間でした。この頃は工藤祐長でした。

まだ昌豊が工藤と名乗っていたときは、武田家の当主は信玄の父である武田信虎のときなのですが、昌豊の父・工藤虎豊は、当時の駿河の今川家当主、今川氏親が没したあと、今川義元と庶子・玄広恵探の間で家督争い(花倉の乱)がおき、玄広が破れ、その使者が武田を頼って落ちてきた際に信虎が切腹を命じたため、昌豊の父・虎豊は強く諫めたが、逆に勘気に触れ、手打ちにされました。(他説あり。出兵時に諫めたとも。)このとき1536年。昌豊は数え年にして15歳のときでした。

この事件により、昌豊の兄である昌祐は、一族郎党を率いて武田家を出奔し、諸国を流浪していました。その中に昌豊の姿もありました。時は流れ、1546年。昌豊が25歳のときに、父・信虎を追放し、当主となった武田信玄より、召還の通知が届きました。これを受け、兄とともに武田家に帰還した昌豊は、工藤家を名乗り、父虎豊の一字をとって昌豊と改名、先の事件の謝罪として金子を与えられ、さらに50騎持ちの侍大将に抜擢されました。

さて、信玄は家督を奪取したあと、父・信虎の悲願でもある信濃平定に向け、攻略を開始します。

昌豊は、1561年には、かの有名な第4次川中島合戦にて別働隊の大将を務めて活躍、また1562年に、上野(こうづけ)攻めの際、国峰城を陥落させた際には、味方死傷者なしという完全勝利を収めました。

1572年の三方ヶ原でも、小笠原長忠、本多忠勝隊を撃破し、武田軍を勝利に導く戦功を立て、信玄が没したあとの1574年には、難攻不落といわれ、信玄の時代で陥落できなかった高天神城を、昌豊の奇策にて陥落せしめています。

そして1575年、かの長篠の戦いにて、山県昌景でも載せましたが、山県、馬場等をはじめ、重臣らで協議し、撤退策を提案しましたが、受け入れられず総攻撃の下知が下りました。

昌豊は前線の中央陣に配置しており、総攻撃により右翼土屋昌次、左翼山県昌景の討ち死に、更に後方の鳶ヶ巣山砦が徳川軍の酒井忠次率いる軍勢に敗走、守将・川窪信実は討死し、挟撃の構えがとられました。

これにより、形勢不利とみた武田軍の親類衆・穴山信君らが勝手に撤退の準備を開始します。武田勝頼自身は死を覚悟で突撃しようとしましたが、側近により諫められ断念、撤退します。
昌豊は長篠では約1500人を率いており、武田軍でも馬防柵の最深部である3重目まで突破しましたが、多大な犠牲者、また撤退命令により退却を余儀なくされます。

そして重臣の馬場信房とともに殿を務め、勝頼の旗印が退却していくのを見届けたうえで、最後まで敵と戦い、身体中に矢が刺さり、蓑のようになっていたという壮絶な最期を飾りました。

↓蓑
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ここからは、余談として逸話や有名話をします。

この内藤昌豊には、感状が一枚も送られていません。

戦国時代では、首ひとつでも取れば感状が送られますが、それより輝かしい功績があるにも関わらず、一枚も送られておりません。その理由について武田信玄は「昌豊ぐらい才能ある人間なら普通の人なんか目じゃない働きがあって当然だよね」と言い、対する昌豊も「いくさは大将の軍配次第で勝利を得るんだから、むやみに個人の手柄にこだわるとかちっちぇーと思うんだ」と感状なくても困らないよと言っています。

戦国時代の武将にしては珍しく、温厚で思慮深く、目先のことには拘らず全体をよく見て知略を尽くして戦をしたといいます。

私の大好きな山県先生は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」(訳すのが難しいのでそのまま載せました…)と「まことの武将」と絶賛され、江戸時代の武士の規範とされる武田信繁と近しい人が同列に評するあたり、この人の凄さが窺えますね。


冒頭で記載した大河ドラマでも採用されなかったのは、もしかしたらこの人を忠実に描きすぎると、高潔すぎて主人公が映えなくなってしまうからじゃないかと勝手に想像してみました。
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テーマ : 信長の野望online~争覇の章~
ジャンル : オンラインゲーム

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Author:いまなかせーじ
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所属一門「熟々おでん塾」
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今中 吉継 (兵65)
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今中 誠治 (士61)
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