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【武将列伝】魔法使いコジーちゃん

こんばんは、いまなかせーじですぬこさざえ


よろしければまずコチラをご覧ください。





本日の武将列伝は、知る人ぞ知る
この方







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果心居士(かしんこじ)」です。

名前・生没年は明らかにされておらず、完全に「謎の人物」です。
実在事態も疑問視されています。
居士というのは、現在では戒名につく尊称として馴染みがありますが、
当時は僧籍に身を置いていた者や信者のことを意味しており、
いわゆる通称ってことですね。そういう意味では「七宝行者」とも。

またこの人は武将ではありません。
ただ、この人のことを知らない人でも、信onで会話したら
只者ではないことはわかるでしょう。

果心居士は、いわゆる「幻術士」であると言われています。
当時においても幾人かの武将と面会し、
中には幻術も披露したことがありますが、
そのほぼ全ての武将から危険視され、
殺害されかけることもありましたが、
見事にかわしていきました。
有名どころでいうと織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・明智光秀
などの超有名人のほか、
歴史上に初めて姿を見せたときには戦国時代の三大梟雄(きょうゆう。残忍の意)の一人、松永久秀と面会したことなどから、主に畿内を中心としていたようです。

いつもでしたら年代ごとにお話しておりましたが、なにぶんこの人の資料があまりに少ないため、今回は主に幻術の内容などを紹介していきます。






☆果心居士の幻術☆



①.沢の池の水面に笹の葉を放り投げると、たちまち笹の葉が魚になって泳ぎだした。

②.①の術を見ても信用しない男の歯を爪楊枝でひとなですると、歯が抜け落ちんばかりにぶら下がった。

③.松永久秀とは特に親交があり、久秀が「幾度も戦場の修羅場をくぐってきた自分に恐ろしい思いをさせることができるか」と挑んだところ、数年前に死んだ久秀の妻の幻影を出現させ、震え上がらせた。

④.豊臣秀吉に召されたとき、果心居士は秀吉がだれにも言ったことのない過去の行いを暴いたために不興を買い、捕らえられて磔に処された。が、このとき果心居士はネズミに姿を変えて脱出し、それを鳶がくわえてどこかに飛び去ったという。




と、よく紹介される幻術はこのようなものです。

内容を見ていただいて、なにか気付くことはありませんか?









よく考えてみると、現代でも上記と似たようなことを
聞いたり見たことがあると思うのです。

実は奇術、いわゆるマジックでよく上記と
似たようなことがされたりしておりますね。

なにも入ってないように見える箱から鳩などが飛び出したり、
マジシャン自身が密室の箱に入って、
箱が開くと別の動物が入っていたりなどなど…



奇術の歴史は以外に古く、日本では奈良時代には中国の唐から仏教と共にその原型が輸入されているそうです。
三国志をよくご存知の方であれば、左慈や張角三兄弟などを思い出していただけるとよくわかるのではないかと思います。



また、安倍晴明などの陰陽師も実は奇術を用いていたのではないかと
言われております。
信onでも陰陽師は大活躍してますが、森羅天翔も見えないワイヤーで
吊るしてもらってるのでしょうかねw



と、実は奇術というのは昔から存在しているわけですね。
しかし何も知らない人間からすると、
不気味なことこの上ないことはたしかです。
現代では簡単なマジックであればタネあかしはされておりますが、
基本的に奇術師にとって奇術を見破られたり、知られたりしてしまうことは
なにより避けなければならないこと…
会社であれば最重要機密が漏れてしまうことに近いわけですから。
奇術の歴史は古くとも、奇術師以外は
原理を知らない人間だけであるでしょうから、
何をしでかしたり、企んでるかわからないと考え、
近寄らせない、近寄らない、
最悪殺害するという判断に出るのも仕方の無いことかもしれませんね。




さて、奇術で説明できるものはありましたが、③の「松永久秀に妻の幻影を見せて恐怖させた」はどうみても奇術だけでは難しく思います。
私は恐らく「催眠術」によるものではないかと思っています。
同じく戦国時代に幻術を駆使した「加藤段蔵(かとうだんぞう)」という者がおり、上杉謙信、武田信玄に仕えたいと思い、幻術を披露しましたが、危険視した信玄に殺害されたのですが、彼は「呑牛(どんぎゅう)の術」という術を修得
していました。
その術の内容は、観客を呼び集め、持参していた牛を指して「今からこの牛を呑む」といい、ゆっくり呑みこんでいくというもの。
どうやっても無理ですよね…物理的に…
しかし、その術の最中、遠くからこれを見ていた人間がおり、その人は「彼は、牛にまたがっていただけだった。」と言っています。
奇術よりも集団催眠をかけた、
という方がしっくりきそうな気がするのです。
③についても、果心居士が催眠術を会得しているなら、
奇術で「怖いかどうかもわからない死んだ妻の幻影を出す」よりも
催眠術で「松永久秀の心理に働きかけ、怖いと思っているものを幻影に出す」としたほうが簡単ではないかと思うのです。


ということで彼は奇術・催眠術使いだった!?ということにしておきますw


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テーマ : 信長の野望online~新星の章~
ジャンル : オンラインゲーム

【武将列伝】内藤修理亮昌豊

まず初めての方は一応コチラからお読みください。

さて今回の列伝は








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(信長の野望online様より)



内藤昌豊さんです。

こういうのってやっぱり誰から紹介していこうか迷いますね。

同一門の人に「なにかリクエストないかなあ?」って聞いたところ、「もう書いた人は?」ときかれたので「山県先生」と応えると、「それじゃ信玄とか幸村とか」や、「山県だったら高坂とか馬場がいいんじゃないかな」
と言われまして、やっぱり好きな武田で最初は攻めたほうがいいかなって思ったので



敢えて四名臣なのにやっぱり名前が一切出てこない内藤昌豊さんを書くことにします。

まずこの人についてはコチラを見ていただきましょう↓




2ちゃんねる
【猫口将軍】山県昌景と愉快な仲間達 より転載

漫画センゴク   四名臣の他の三人は出るが内藤は秋山と差し換え
大河武田信玄   他の三人は出るが内藤だけ出ない
大河風林火山   他の三人は出るが内藤だけ出ない
ゲーム戦国ランス 他の三人は出るが内藤は真田と差し換え
ゲーム太閤立志伝 川中島イベントを起こすのに他の三人は必要だが内藤は必要ない…





なんでしょう、哀愁が漂いますね。

目から汗が出てきそうです。

エロゲのみならず大河ドラマでもボツられるとか…
地味であるがゆえにこのようなことになってしまったのでしょうが…
あまりにも…




さて、気を取り直してお話していきましょうか。




昌豊は1522年、工藤虎昌の次男として世に生を受けました。

内藤昌豊は、元は工藤家の人間でした。この頃は工藤祐長でした。

まだ昌豊が工藤と名乗っていたときは、武田家の当主は信玄の父である武田信虎のときなのですが、昌豊の父・工藤虎豊は、当時の駿河の今川家当主、今川氏親が没したあと、今川義元と庶子・玄広恵探の間で家督争い(花倉の乱)がおき、玄広が破れ、その使者が武田を頼って落ちてきた際に信虎が切腹を命じたため、昌豊の父・虎豊は強く諫めたが、逆に勘気に触れ、手打ちにされました。(他説あり。出兵時に諫めたとも。)このとき1536年。昌豊は数え年にして15歳のときでした。

この事件により、昌豊の兄である昌祐は、一族郎党を率いて武田家を出奔し、諸国を流浪していました。その中に昌豊の姿もありました。時は流れ、1546年。昌豊が25歳のときに、父・信虎を追放し、当主となった武田信玄より、召還の通知が届きました。これを受け、兄とともに武田家に帰還した昌豊は、工藤家を名乗り、父虎豊の一字をとって昌豊と改名、先の事件の謝罪として金子を与えられ、さらに50騎持ちの侍大将に抜擢されました。

さて、信玄は家督を奪取したあと、父・信虎の悲願でもある信濃平定に向け、攻略を開始します。

昌豊は、1561年には、かの有名な第4次川中島合戦にて別働隊の大将を務めて活躍、また1562年に、上野(こうづけ)攻めの際、国峰城を陥落させた際には、味方死傷者なしという完全勝利を収めました。

1572年の三方ヶ原でも、小笠原長忠、本多忠勝隊を撃破し、武田軍を勝利に導く戦功を立て、信玄が没したあとの1574年には、難攻不落といわれ、信玄の時代で陥落できなかった高天神城を、昌豊の奇策にて陥落せしめています。

そして1575年、かの長篠の戦いにて、山県昌景でも載せましたが、山県、馬場等をはじめ、重臣らで協議し、撤退策を提案しましたが、受け入れられず総攻撃の下知が下りました。

昌豊は前線の中央陣に配置しており、総攻撃により右翼土屋昌次、左翼山県昌景の討ち死に、更に後方の鳶ヶ巣山砦が徳川軍の酒井忠次率いる軍勢に敗走、守将・川窪信実は討死し、挟撃の構えがとられました。

これにより、形勢不利とみた武田軍の親類衆・穴山信君らが勝手に撤退の準備を開始します。武田勝頼自身は死を覚悟で突撃しようとしましたが、側近により諫められ断念、撤退します。
昌豊は長篠では約1500人を率いており、武田軍でも馬防柵の最深部である3重目まで突破しましたが、多大な犠牲者、また撤退命令により退却を余儀なくされます。

そして重臣の馬場信房とともに殿を務め、勝頼の旗印が退却していくのを見届けたうえで、最後まで敵と戦い、身体中に矢が刺さり、蓑のようになっていたという壮絶な最期を飾りました。

↓蓑
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ここからは、余談として逸話や有名話をします。

この内藤昌豊には、感状が一枚も送られていません。

戦国時代では、首ひとつでも取れば感状が送られますが、それより輝かしい功績があるにも関わらず、一枚も送られておりません。その理由について武田信玄は「昌豊ぐらい才能ある人間なら普通の人なんか目じゃない働きがあって当然だよね」と言い、対する昌豊も「いくさは大将の軍配次第で勝利を得るんだから、むやみに個人の手柄にこだわるとかちっちぇーと思うんだ」と感状なくても困らないよと言っています。

戦国時代の武将にしては珍しく、温厚で思慮深く、目先のことには拘らず全体をよく見て知略を尽くして戦をしたといいます。

私の大好きな山県先生は「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」(訳すのが難しいのでそのまま載せました…)と「まことの武将」と絶賛され、江戸時代の武士の規範とされる武田信繁と近しい人が同列に評するあたり、この人の凄さが窺えますね。


冒頭で記載した大河ドラマでも採用されなかったのは、もしかしたらこの人を忠実に描きすぎると、高潔すぎて主人公が映えなくなってしまうからじゃないかと勝手に想像してみました。

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ジャンル : オンラインゲーム

【武将列伝】山県昌景

武将列伝をはじめてご覧になる方はまずコチラを。

こんばんは、いまなかせーじですぬこさざえ
さて、記念すべき第一回目の武将列伝!ですが、
なんといっても…

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(信長の野望online様より)

やはり当ブログ名の起源ともなっているこの方でしょう!
ほんと新田次郎氏の「武田勝頼」を読んだ際は
この人の討ち死にを惜しんだか…(結末はもちろんしってましたが)

さて、それでは列伝に参ります。




--------キリトリ--------




山県昌景は1529年に出生したといわれています。
この山県昌景、大変勇猛な武将で知られていますが、
身体も超特大サイズだった!…わけではありませんでした。
むしろその逆で、当時成人男性で約150cmといわれていた時代に
130~140cmしかなかったといわれています。
逸話では、敵方からも「武田の小男がきたぞー!」
畏怖を込めていわれたりしたそうですw
また体重も軽く兎唇(いわゆる ω←こんなの)であったといわれます。
現代では即刻整形ものの兎唇ですが、しかし当時においては
将来武勇に優れるであろうという縁起のよいものであったともいわれ、
このことからも将来を嘱望されていました。

昌景は、元は飯富家の人間であり、飯富虎昌とは兄弟の間柄でした。
(歳が離れすぎているため甥ともいわれる?)
飯富源四郎>飯富昌景>山県昌景と改名していきました。
飯富から山県に苗字が変わったきっかけは、
1565年に武田義信(信玄の嫡男)が謀反を起こしたため、
その傅役(後見人)であった虎昌も成敗されたのですが、
このとき、「甲陽軍艦」によれば
昌景は虎昌が関与していることを承知の上で
信玄に密告したということ
であり、
この出来事により、元は虎昌が率いていた赤備えが昌景が引継ぎ、
さらにこのとき甲斐の名家であった山県の名跡を継いだ

といわれています。
しかし上記については、
「甲陽軍艦」に記されていることではあるのですが、
どうもいまいち信憑性に欠けるもののようで、
ほかの資料と照合して一致しないと
確実性がないほどであるということなのです。
有名な割にあまり信用できる書物ではないため、
昌景が義信・虎昌の謀反をどういった経緯で密告したのか
どうかもわかりません。
しかし赤備えを引き継いだこと、
山県姓にかえたことを見ても
かなり深い形で関与していたことは窺えます。
完全に密告したのか、はたまた虎昌からなにか告げられ、
止む無く実行したか…
真実はどちらなのでしょうね。

さて、赤備えを引き継ぎ、各所へ従軍。
常勝といわれる武田軍の中でも一際目立つ戦果を誇っていました。
信玄の異母弟であり傾奇者(派手ないでたちを好むという意味で)
でもある一条信龍からも「お宅の部隊はどうしてそんな強いの?」
と質問されたり、
三方ヶ原での徳川家康も山県隊に追われたときは、
脱糞したのにも気付かないまま
「山県という武将は恐ろしいよ~」と恐怖させたり。
というのも赤色って遠目からみても大変目立つ色なので、
存在がすぐわかりますよね。
普通戦場でそんなに目立ってしまうと
真っ先に的にされてしまいますが、
もしその部隊が強いと評判であれば、
この存在が恐怖にかわってしまう
わけです。
この見解からも、命からがら三方ヶ原から逃げ帰った家康は、
赤備えの印象が強くのこり、
武田家滅亡後は、なんとしてもこの部隊を我が配下に置こうと
躍起になって武田家の遺臣の確保にいそしんだといいます。
もう一例は大坂夏の陣の真田幸村で、
この隊も武具という武具には真っ赤に塗り上げ、
後世これだけの語り草になったのでしょう。
ただこの時代の朱塗りって結構なお金がかかるそうですがねw
とまあこれだけ後世に赤備えを広めた山県昌景ですが、
1575年、長篠の戦いにて戦死します。
このときはすでに信玄は亡くなっており、
陣代の武田勝頼が武田家を率いていましたが、
昔から折合いが合わず、このときも軍の進退が問題で勝頼と口論になり、
「としをとっても命が惜しいとみえる」と批判され、
討ち死にする覚悟で臨んだといわれますが…
私の見解ではそれについては違う意見が頭にあるのですが、
それはまたいずれ…

これだけ勇猛な武将ですが、
軍事だけでなく内政や外交にも手腕を発揮したらしく、
なにをさせてもそつなくこなす武将であったのではないでしょうか。





まさにチート武将!



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プロフィール

いまなかせーじ

Author:いまなかせーじ
信長の野望online
萌黄鯖 雑賀衆
所属一門「熟々おでん塾」
城下町「今中家」

メインキャラ
今中 勝頼 (軍65)
今中 景霞 (術65)
今中 吉継 (兵65)
今中 茉莉花(鎧64)
今中 五郎八(雅64)
今中 桂林 (芸62)
今中 誠治 (士61)
(ほかにもいます)

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